ディスカッション



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「意のままになる生」 【いのままになるせい】


 「前述のように、〈無限の生〉の根底にあるのは「意のままになる生」である。それは人間存在が現実に介入することによって、望まぬ何かを取り除き、思い描いた世界を創造できるとする信念に他ならない。「大きな物語」において強調されていたのは、「存在論的自由」を獲得していく主体としての“人類”であった。「意のままになる生」の物語は、ここで人類の物語としては廃れていったが、個人の物語としてはむしろ肥大化を続けることになるのである。」 (下巻 113-114



 〈無限の生〉の「世界観=人間観」の本質を表現したもので、自らの存在のあり方を自己決定できるような〈生〉のあり方のこと。

 本書では特に人々が「存在論的自由」を求めた結果として、住むべき場所、携わるべき仕事、関わるべき他者、結婚、生殖、育児など個人的な〈生〉を形作るあらゆる事柄が自発性と自由選択に基づくものへと移行してく延長線上として、「意のままにならない他者」「意のままにならない身体」からの解放が進行し、〈生の自己完結化〉〈生の脱身体化〉が促進されていくことが注視される。

 またそのなかで、〈自立した個人〉(個人は外的なものに服従することなく、自ら思考し判断できる主体になれる)も、「ゼロ属性の倫理」(〈間柄〉なき〈関係性〉が可能であるとする)も、「積極的自由」(「自由な個性と共同性の止揚」を通じて、負担なき〈共同〉が可能であるとする)も、「本当の私」〈他者存在〉から独立した〈自己存在〉が可能であるとする)さえも、「時空間的自立性」「約束された本来性」という前提のもとに想像された「本来の人間」の理念から出発して、この「意のままになる生」を夢想する物語であったことを提起する。

 そしてこの物語が具現化したものこそ、まさしく「〈ユーザー〉としての生」であり、その先にあるものこそが、〈自己完結社会〉であったことを明らかにする。

 「意のままになる生」の理念は、人間が有限な存在である限り(〈有限の生〉の五つの原則)、絶対に実現することはできない(それが実現するときは、人間はすでにわれわれが人間だと想像しうる存在ではなくなっているからである(〈無限の生〉の「ユートピア」))。

 なお、しばしば見られる見解として、技術の発展の歴史を紐解けば、何時の時代も人間は「意のままになる生」を求めてきたとの主張がありえる。しかし本書では、人類が行ってきた現実との格闘は、むしろ「意のままにならない生」の現実を引き受けつつ、「より良き〈生〉」を見いだそうとして行われてきた格闘であって(したがって「現実に寄り添う理想」や〈有限の生〉の「世界観=人間観」に近いと言える)、

 〈無限の生〉の「世界観=人間観」が示すように、あるべき人間や社会(「本来の人間」)の姿を身勝手に想像し、理想とかけ離れた現実を否定しようと格闘するものではなかったと考えている。

 つまり「意のままになる生」からの解放と制圧を執拗に求める価値観は決して人類において普遍的なものではなく、そうした「世界観=人間観」は、唯一西洋近代哲学によって具現化されてきたとの位置づけである。