ディスカッション


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「約束された本来性」 【やくそくされたほんらいせい】


 「そして第二は、「約束された本来性」、すなわちこの世界には未だ現実には現れていないものの、未来において実現することが約束された「本来の人間」なるものが存在するという想定である。・・・・・・「本来の人間」が未来において実現されるべきものであるとするなら、誰一人としてそれを目撃したことなどないはずである。それにもかかわらず、ここには「本来の人間」=「あるべき人間」が存在するという確信だけが先にあり、そこから照射して、現実の方が克服されるべきものとして捉えられているのである。」 (下巻 112



 西洋近代哲学における人間理解が体現された「自由の人間学」に含まれる前提のひとつで、この世界には未だ現実には現れていないものの、未来において実現することが約束された「本来の人間」なるものが存在するという想定。

 この前提は、すでに「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている」というJ・J・ルソー(J. J. Rousseau)の言葉(「社会契約論」『人間不平等起原論/社会契約論』小林善彦/井上幸治訳、中公クラシックス、2005年、207頁)に垣間見ることができるが、この実現されるべき「本来の人間」が“ある”という想定こそが、I・カント(I. Kant)やG・W・F・ヘーゲル(G. W. F. Hegel)を経由してK・マルクス(K. Marx)に至る社会変革思想の基盤になったともいえる(この想定によって、たとえ現実の人間が劣悪で醜いものに見えたとしても、それは「本来の人間」が実現されていないからである、またわれわれに必要なのは努力と英知によってまさしく「本来の人間」を実現させることだ、と考えられるようになる)。

 しかしこの「あるべき人間(社会)」としての理念を掲げ、現実の人間(社会)を変革しようという姿勢そのものが、〈無限の生〉の「世界観=人間観」のもとで「現実を否定する理想」を掲げることを意味しており、その試みは「意のままにならない生」の現実を絶え間なく否定していく「無間地獄」をもたらすことにもなる。

 なお、この前提のもっとも奇妙な点は、「本来の人間」が未来に実現されるものだとすれば、そうした人間など誰ひとりとして目撃したことはないはずであり、したがってそれが「本来の人間」である根拠はどこにもないにもかかわらず、それが人々に確信されているという点である。

 この矛盾を解く手がかりとなるのは、おそらくルネッサンス期のキリスト教であり、そこにあった、神の似姿を与えられた特殊な被造物である人間に、神が与えた特別な計画や目的がないはずはないという信念である。