ディスカッション


未来世界を哲学する―環境と資源・エネルギーの哲学)
未来世界を哲学する
環境と資源・エネルギーの哲学


〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

用語解説

   

「ゼロ属性の倫理」 【ぜろぞくせいのりんり】


 「しかしここでは、今日のわれわれが「不介入の倫理」と並んで無意識に行使している、まったく別の価値規範、ある種の倫理というものについて考えてみたい。それはあらゆる〈関係性〉に対して、社会的な立場や役割、老若男女を含んだ身体的な属性に関わる一切の概念を持ち込むことなく、ひとりひとりが「かけがえのないこの私」として対面しなければならないないとする、「ゼロ属性の倫理」である。」 (上巻 225



 現代社会を生きる人々に内面化されている〈関係性〉をめぐる理想のひとつで、理想的な〈関係性〉を築くためには、世間によって付与された肩書きや偏見を取り除き、その人自身の内面やありのままの姿に深く寄り添わなければならないとするもの。

 その背後には〈自立した個人〉の思想があり、人は誰でも、権威や権力といった外力によって歪められることのない「かけがえのない私」であるとの認識がある。ところがこの倫理を無条件に拡大させてしまうと、あらゆる〈間柄〉が悪しき抑圧や暴力として位置づけられることになってしまう(〈間柄〉なき〈関係性〉、あるいは〈間柄〉なき世界こそが理想的な世界となってしまう)。

 「人間的〈関係性〉」の原理から言えば、〈間柄〉は健全な〈関係性〉を成立させるために不可欠な要素であり、その倫理の行きつく先は「0か1かの〈関係性〉」という、歪んだ〈関係性〉がはびこる世界である。

 いかに親しい〈関係性〉であっても、そこには依然として〈距離〉が必要となる。それは人間存在にとって、すべてを「〈我‐汝〉の構造」に委ねるような〈関係性〉などそもそも耐え難いものだからである。

 このことは別の言い方をすれば、人間社会には必ず何らかの形で“標準”が形作られ、その“標準”がもたらす抑圧から、われわれは逃れられないということでもある。そのためわれわれは、どうしても自らの望まない〈間柄〉を受け入れなければならない場面や、望まない振る舞いを求められる場面といったものに直面するときがある。

 「ゼロ属性の倫理」が誤っていたのは、〈間柄〉がもたらす抑圧の部分に目を向けるあまり、〈間柄〉の存在自体を否定してしまったこと、また「かけがえのない私」を歪める外力さえ取り除けば、あたかも負担の存在しない〈関係性〉が成立するかのような幻想を流布してきたことである。

 重要なことは、〈間柄既定〉は、時代の要求や人々の望みに沿った形に修整することができるということ(ただしそのためには、相応の時間と人々の根強い努力が必要である)、そして決してゼロにすることはできない〈関係性〉の負担を、われわれがいかに分け合えるのかということである。