用語解説
「意のままにならない他者の原則」(〈有限の生〉の第三原則) 【いのままにならないたしゃのげんそく】
- 「それはわれわれが人間である限り、「意のままにならない他者」と関わることが避けられず、そこに生じる負担もまた、引き受けなければならないということを指している。……〈他者存在〉とは、本質的に「意のままにならない」ものである。そのため、そこにある〈関係性〉が、自身の望んだ形と一致することなどほとんどない。私の〈生〉は、しばしば意に反して介入されたり、意に反した介入を求められたりもするだろう。そしてときには、自身の生き方を曲げなければならないときも、また敢えて望まぬ生き方を演出しなければならないときもあるのである。」 (下巻 132-133)
人間が人間である限り、自らの〈生〉において決して意のままにできないものであところの〈有限の生〉をめぐる五つの原則のうちの一つで、「意のままにならない他者」と関わることを避けられず、そこに生じる負担もまた引き受けなければならないということ。
西洋近代哲学においては、〈自立した個人〉の思想や「かけがえのないこの私」、「積極的自由」などの理想を通じて、決して抑圧が生じることのない〈関係性〉の理念が語られてきた側面があった。
しかし負担を伴わない〈関係性〉など現実には想定できず、いかなる〈関係性〉においても、何らかの形で必ず抑圧や、権力、暴力の側面が内在している。また、自発性や自由選択を尊重するのみでは、〈共同〉は成立せず、その担い手もいなくなる(「100人の村の比喩」)。
したがって、「〈有限の生〉とともに生きる」こと、すなわち〈有限の生〉を「肯定」するということは、自身が〈関係性〉や〈共同〉を必要としている事実、またそこで生じる抑圧を、ある面では受け入れるということを意味している。
もしも本当にわれわれが負担なき〈関係性〉を望むのであれば、「意のままにならない他者」を「意のままになる他者」に置き換えてしまうか、そもそも〈関係性〉自体を構築しないよう努めるより他にないだろう(「脳人間」の比喩)。
しかし「意のままになる他者」との間には「意味のある〈関係性〉」は芽生えず、したがって「意味のある私」もまた成立することはない。ここで問われているのは、そうした〈関係性〉の負担、〈共同〉の負担を軽減させようとして、人間存在が発達させてきたさまざまな作法や知恵(〈距離〉の自在さ、〈役割〉の原理、〈信頼〉の原理、〈許し〉の原理)と、われわれが再びどのように向き合うのかということである。