用語解説
「肯定」(〈有限の生〉の) 【こうてい】
- 「驚くべきことに〈無限の生〉の「世界観=人間観」は、これらすべての原則に挑戦し、そのあらゆる否定の先にこそ「本来の人間」=「完全な人間」が現れると信じてきた(37)。しかしわれわれがそれとは別の道を行くというのであれば、そこで求められるものとは、むしろ「意のままにならない生」の肯定となるだろう。すなわち〈有限の生〉とともに生きるということ、そこにこそわれわれの新たな出発点があると考えるのである。」 (下巻 130)
人間存在が「意のままにならない生」の現実と向き合う〈世界了解〉を果たしてく際に、人間が人間である限り避けられない〈有限の生〉がもたらす多くの現実を、それに伴う哀苦や残酷さを含めて受け入れること。
よく知られるように、E・キューブラー=ロス(E. Kübler-Ross)は、終末期患者が自らの現実を受け入れるまでに「否認」、「怒り」、「取り引き」、「抑欝」、という経過をたどり、最後は、あるがままの現実をあるがままのものとして受け入る「受容」という境地に至ると述べた。
注目したいのは、このことは終末期患者に限らず、多かれ少なかれ、人々が「意のままにならない生」の現実に直面した際に示す、一般的な反応であるかもしれない、ということである。
もっとも〈有限の生〉を「肯定」していくこと、すなわち〈世界了解〉を成し遂げていくことは、やはり容易なことではない。そのためには(とりわけ神や、この世界に人智を超えたよろずの物事を見いだせなくなった現代人には)、人々を勇気づける言葉や意味、あるいは〈存在の連なり〉や「担い手としての生」を生きることの作法や知恵、「人間という存在に対する〈信頼〉」など、〈世界了解〉を仲立ちしてくれるさまざまなものが必要だろう。
またここでの「肯定」は、例えばすべての望みを捨てて「諦め」に浸ることや、批判的な心構えをも放棄して自暴自棄になること、現実にただただ追従していくことを決して意味しない。
そこには「〈有限の生〉とともに生きる」こと、あるいは「より良き〈生〉」を生きてくための「現実に寄り添う理想」というもの依然として存在するのであり、重要なことは、人々がすでに手にしているもの、自身が立っている場所を見詰め、そこから前を向いてしっかりと自身の現実と対峙していくことだからである。