用語解説
「自己への〈信頼〉」 【じこへのしんらい】
- 「それはあらゆる存在の不完全性、そして〈信頼〉自身の不完全性を知りながら、そこに内在する可能性を肯定することによって、おのれ自身が何かを引き受けていく態度のことであった。ならばなおさら、われわれは問うべきだろう。不完全なこの世界を〈信頼〉できない人間が、なぜ不完全なおのれという存在を〈信頼〉できるのだろうか、と。」 (上巻 287)
- 「この〈世界了解〉へと至る道の先にこそ、おそらく「自己への〈信頼〉」と呼べるものが存在するからである。われわれが必要としているのは、「かけがえのないこの私」を肯定することでも、偏狭な自意識を誰かにありのまま受け止めてもらうことでもない。求められているのは、人間が生きることの哀苦や残酷さを前に、なお現実と対峙していくことができる、人間としての自信だからである。」 (下巻 147)
哀苦や残酷さを含んだ「意のままにならない生」(〈有限の生〉)の現実を「肯定」していく〈世界了解〉の先にあるもので、さまざまな限界に基礎づけられた〈自己存在〉の不完全性を覚悟してなお、現実と格闘していける心の強さのこと。
「自己への〈信頼〉」は、いわゆる「自己肯定(感)」を高めることではない。現代人にとって「自己肯定」という言葉は、どこか「かけがえのないこの私」(あるいは「ありのままの私」)の承認を通じて、肥大した自分自身の自意識を肯定できるという響きを伴っている。
しかしそうした願望は「意のままにならない他者の原則」(〈有限の生〉の第三原則)の前にはあっなく崩れ落ちてしまうものである。問われているのは、人間が生きることの哀苦や残酷さを前に、なお現実と対峙していくことができる人間としての自信、他者とともに〈生〉を実現していく主体としての自信であり、困難を前にして自分自身に大丈夫だと言ってあげられる心の強さである。
それらを支えてくれるのは、この世界に一歩踏みだしていく勇気と、〈共同〉を通じて積み重ねられた〈役割〉や〈信頼〉や〈許し〉の経験、そして〈存在の連なり〉のなかで「担い手としての生」を生きる覚悟とによって形となった、〈自己存在〉に対する自分自身の〈信頼〉(あやふやで、眼で見たり、触って確かめたりすることができない何かを、それでも信じられること)なのである。