【本文】



〈自己完結社会〉の成立(上)
上柿崇英著


〈自己完結社会〉の成立(下)
上柿崇英著

環境哲学と人間学の架橋(上柿崇英 
/尾関周二編)
環境哲学と人間学の架橋
上柿崇英/尾関周二編


研究会誌『現代人間学・
人間存在論研究』

   

『〈自己完結社会〉の成立』
【序論】――本書の構成と主要概念について


(4)本書の構成について 第5部


 続いて【第五部】「〈有限の生〉と〈無限の生〉」では、以上のすべての分析を総合的に捉えたうえで、いよいよ本書の結論部分へと進んでいく。

 【第九章】「〈自己完結社会〉の成立と〈生活世界〉の構造転換」では、これまで三つのアプローチを通じて捉えてきた〈自己完結社会〉の成立過程を、今度は“日本社会”というわれわれが生きる具体的な場に即しながら論じていく。つまり日本社会が今日に至るまでの150年あまりを、便宜的に五つの期間に区分し、〈自己完結社会〉が成立していく〈生活世界〉の構造転換について、それぞれの時代の情景を交えながら見ていきたい。
 われわれはこれまで〈自己完結社会〉へと至る過程を抽象的な概念の範疇において論じてきたが、われわれの過去には、実際には、それぞれの時代の要請と対峙しながら〈生〉を実現させてきた無数の人々が存在する。
 本章で試みたいのは、そうした人々に思いを馳せつつ、過去の出来事を〈自己存在〉に連なる「意味のある過去」として掌握していくことである。そうした姿勢のことを、本章では“生きた地平”に立つと呼ぶことにしよう。

 本章では、具体的には以下のように議論を進めていく。
 まず「第一期:近代国家日本の成立から敗戦まで(1868‐1945)」は、日本社会において構造転換の土台が整えられた時代として位置づけられる。というのも、この時代に「官僚機構」や「市場経済」といった〈社会的装置〉の最初の構成要素が整備されたと言えるからである。
 とはいえその影響力は限定的なものであった。〈生活世界〉の実態から見れば、都市部で花開いた新しい生活様式とは裏腹に、圧倒的多数の人々は、依然として古い時代から続く濃密な〈生活世界〉、生々しい〈共同〉の現実のなかで生きていたからである。

 続いて「第二期:戦後復興から高度経済成長期まで(1945‐1970)」は、構造転換の“過渡期”に相当する時代として位置づけられる。
 日本社会は戦後の改革と復興を経て、やがて“豊かな社会”へと形を変えつつあった。それが過渡期であったと言えるのは、そこでは一方において、確かに「〈共同〉のための事実」が浸食され、農村部では生活組織の形骸化が進行していたものの、それでも全社会的に見れば、〈共同〉のための人間的基盤は未だ〈故郷〉の記憶を共有する人々の間で存続していたと言えるからである。
 本章ではこうした時代に生きた人々のことを、象徴的に〈旅人〉と呼ぶことにしたい。それは〈故郷〉を離れて理想に邁進した人々が、あたかも「母港」を背に大いなる「目的地」へと「航海」を続ける旅人のように見えるからである。

 続いて「第三期:高度消費社会の隆盛からバブル崩壊まで(1970‐1995)」は、本格的な構造転換が進んだ時代として位置づけられる。
 ここで注目したいのは、この時代に急速に拡大していった〈郊外〉という社会空間についてである。というのもこの〈郊外〉こそ、隆盛していく〈社会的装置〉の“付属物”として形作られ、それゆえ〈存在の連なり〉から本質的に浮遊した社会空間、さらには住民相互の〈共同〉をはじめから想定しないきわめて特殊な地域社会だったと言えるからである。
 しかし当時の人々にとっては、そうした〈郊外〉での生活こそ、便利で清潔、プライベートが確保されうる夢の舞台であった。こうしてかつての〈旅人〉たちが、今度は大挙して〈郊外〉に「定住」していく。そして〈社会的装置〉にぶら下がる〈ユーザー〉となっていくのである。

 続いて「第四期:情報化とグローバル化の進展まで(1995‐2010)」は、構造転換がさらなる段階へと進んだ時代として位置づけられる。そこでは「情報世界」という新たな〈社会的装置〉の構成要素が成立するとともに、〈郊外〉特有の浮遊性が全社会的に拡大していったからである。
 本章では、〈郊外〉において生まれ育った新たな世代のことを〈漂流人〉と呼ぶことにしよう。それはこうした人々が、〈旅人〉とは対照的に、あたかも帰るべき「母港」も、向かうべき「目的地」も、あるいは自身の立ち位置を知るための「羅針盤」さえも失った漂泊船のごとき存在に見えるからである。
 〈漂流人〉は、生まれながらにして〈存在の連なり〉から浮遊し、「〈共同〉のための意味」も「〈共同〉のための技能」も受け継がれることなく成長していく。本章ではこうした人々が、「かけがえのないこの私」という自意識を抱えたまま、自己存在への過剰な期待と、それとは裏腹の自己存在への根源的な不信感とによって引き裂かれ、次第に「諦め」の感情を募らせていく姿について見ていこう。

 続いて「第五期:いまわれわれが立っている地点(2010‐)」は、進展していく現代科学技術によって、まさしく〈自己完結社会〉が台頭していく時代として位置づけられる。そこでは年を重ねた最初の〈漂流人〉たちによって生み育てられた、〈漂流人〉の“第二世代”が成人を迎えることになるだろう。
 本章ではそこで、「不介入の倫理」を用いて人間関係をやり過ごそうとしながら、すでにその試みに挫折しつつあるわれわれの姿について改めて見ていくことにしたい。
 使用可能な〈間柄〉に欠乏し、〈役割〉も〈信頼〉も、そして〈許し〉さえも失ったわれわれは、こうしてときおり迫り来る〈共同〉の必要に怯え、その重圧に苦しむことになる。「意のままになる他者」を希求し、「自分だけの世界」に自閉する人々は、こうして再び「意のままにならない現実」とのあいだで引き裂かれていくことになるのである。

 以上の考察を経た後で、本章では改めて、時代において生まれ、時代によって裏切られていく人間存在の残酷さ、そしてそうした残酷さを引き受けなければならないわれわれ自身の問題について考えていく。
 加えてそれぞれの時代に人々が抱いた理想と、「第四期」以降の「諦め」とをめぐる問題について、そして「第三期」以降の時代に、われわれが〈自立した個人〉に代わる人間の思想をついに構築できなかった問題、すなわち「戦後思想」そのものに関わる問題についても触れることにしたい。

 【第十章】「最終考察――人間の未来と〈有限の生〉」では、われわれが〈自己完結社会〉の成立という事態を受けて、そうした現実と向き合っていくための手がかりとなるものについて考えていく。

 本章では最初に、改めて「世界観=人間観」という視点を導入することにしよう。
 「世界観=人間観」とは、われわれが世界や他者と対峙する際、あらかじめ獲得している根源的な理解の枠組みのことを指している。そしてその視点はわれわれに、〈自己完結社会〉を背後で支え、それを促進しているひとつの「世界観=人間観」の存在に気づかせてくれるだろう。
 それは「意のままになる生」こそが人間のあるべき姿であると考え、また人間の使命とは、それを阻む「意のままにならない生」を克服していくことであると考える、〈無限の生〉の「世界観=人間観」である。

 この〈無限の生〉の「世界観=人間観」は、〈自己完結社会〉の本質を理解するにあたって、きわめて重要なものである。
 例えば〈生の自己完結化〉を「意のままにならない他者」からの解放と理解し、また〈生の脱身体化〉を「意のままにならない身体」からの解放と理解すれば、われわれは両者の共通点がいずれも“他者”や“身体”といった、これまで人間が決して逃れることのできなかった〈生〉の前提の解体にあるということに改めて気づくだろう。
 ところが〈無限の生〉の理想からすれば、それらはまさに「意のままになる生」という、人間存在の“あるべき形”が実現していくことを意味しているのである。

 とはいえ古い時代においては、こうした〈無限の生〉の理想は決して一般的なものではなかった。本章ではここで、その原型を生みだしたものこそ西洋近代哲学であるということについて見ていこう。
 注目したいのは、〈自立した個人〉の思想の原型となった「自由の人間学」、そしてそこに内在していた「時空間的自立性」と「約束された本来性」という特異な人間理解についてである。
 本章ではこうした人間理解が、「政治的自由」の次元を超えて「存在論的自由」の理想へと拡張されたとき、まさしく〈無限の生〉へと続く扉が開かれたということについて見ていきたい。

 それではなぜ、〈無限の生〉の「世界観=人間観」は人々に苦しみをもたらすのだろうか。ここで注目したいのは、そこにある理想の形が「現実に寄り添う理想」ではなく、本質的に「現実を否定する理想」であること、すなわち現実の外部に“あるべき何か”の理念を定め、そこから絶えず生身の現実を否定しなければならない構造を含んでいることである。
 “自由”、“平等”、“自律”、“共生”といった近代的価値理念の多くには、実はこうした構造が内在している。「現実を否定する理想」は、「完全な人間」を絶えず求めるがゆえに、決して終着するということがない。それゆえわれわれは、そこで何かが実現する度に、かえってさらなる不完全さを発見してしまうだろう。
 本章では、こうした「無間地獄」とも呼べる構造こそが、われわれの苦しみの根幹にあるということを指摘したい。

 そして本章では、こうした「無間地獄」の構造が、〈自己完結社会〉の進展にしたがい、いまやわれわれの〈生〉の全域にまで拡大しつつあるということについても見ていこう。
 実際われわれは、“自由選択”や“自己決定”という形のもと、「意のままになる生」がかつてない水準において拡大していく時代を生きている。そしていつしか、「意のままになる生」こそが「正常」であり、「意のままにならない生」など「非正常」であるかのような錯覚さえ覚えつつあるようにも見える。
 しかしだからこそ、おそらくわれわれは苦しむのである。われわれは人間である限り、「意のままにならない生」の現実からは決して逃れることなどできない。それにもかかわらず、〈無限の生〉の理想はそうした人間的現実を直視することを許さないからである。

 とはいえ本章では、ここでひとつの思考実験を導入する。それはわれわれの苦しみの根源が、仮にこうした理想と現実の乖離にあるとするなら、進展し続ける科学技術によって、「意のままにならない生」を完全に「意のままになる生」に置き換えてしまえば良いとも考えられるからである。
 本章では、ここで【第一章】で見た“人間の未来”に関するシナリオ、すなわち〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉が極限的に進んだ世界について再考してみよう。例えばそれは、遺伝子操作が実現する究極的な平等社会、あるいは身体を完全に捨て去った「脳人間」の世界や、「自殺の権利」が制度化された社会といったものである。
 そして本章では、そうした究極の「ユートピア」においては、完璧な「意のままになる生」の実現によって、確かにわれわれは根源的な苦しみから解放されるだろうということ、しかしそのためには、われわれ自身が人間であることを文字通り捨て去らなければならない、ということについて確認しよう。

 本章の後半では、こうした〈無限の生〉への挫折を踏まえたうえで、われわれにはいかなる道が残されているのかということについて考えていく。そしてその道とは、端的には〈有限の生〉とともに生きるということである。
 われわれ人間には、人間である限り決して逃れられない何かがある。ここではそれを〈有限の生〉の五つの原則――「生物存在の原則」、「生受の条件の原則」、「意のままにならない他者の原則」、「人間の〈悪〉とわざわいの原則」、「不確実な未来の原則」――という形で整理しよう。
 確かに〈有限の生〉を生きるということは、一面において、人間が生きることの哀苦や残酷さを受け入れていくことを意味してる。しかしそもそも人生に意味があるとするなら、それはこうした〈有限の生〉とわれわれが対峙していくことによってはじめて導出されるものであるはずである。
 われわれが真に必要としているのは、現実を否定する〈無限の生〉の理想などではない。本章では、それが「意のままにならない生」を引き受けてもなお、より良き〈生〉を希求していくことの意味、そしてその道に至るための“術”であるということを指摘したい。

 そして本章では、この〈有限の生〉とともに生きるための“術”に関わるものとして、哀苦と残酷さに満ちたこの世界を生きることの救い、すなわち人間の〈救い〉というものについて、また、より良き〈生〉を希求する人々にとっての「美しく生きる」ということへの願い、すなわち人間の〈美〉というものについて考察しよう。
 その手がかりとなるのは、人間存在が「意のままにならない世界」のもと、「意のままにならない他者」とともに生きることを了解していく、〈世界了解〉の概念である。
 本章ではここで、人間の〈救い〉とは、われわれが〈有限の生〉の肯定と〈世界了解〉を果たしていくなかで、やがて〈自己への信頼〉へと至ることであるということ、そして人間の〈美〉とは、〈世界了解〉を成し遂げようと格闘していくなかで自覚されうる、その人自身の「生き方としての美」であるということについて見ていくことにしたい。

 以上の【第五部】の議論において注目すべきは、本書でこれまで試みられてきたさまざま分析が、最終的にいかなる形で統合され、総括されるのかということについてである。
 【第九章】では、それを日本社会というわれわれが生きる具体的な場に即して試み、【第十章】では、それをさらに「世界観=人間観」という包括的な観点のもとで試みる。われわれはここで、〈有限の生〉とともに生きるというひとつの結論を得ることになるが、ここでの考察は、最終的に「現代人間学」という方法論、そして「強度を備えた〈思想〉」の創出という、本書の原点となる問題意識に帰ってくることになるだろう。

 なお本書では、下巻の巻末に二つの【補論】といくつかの【付録】を掲載している。このうち第一の【補論】は、〈自己完結社会〉の成立をめぐる本書の議論を踏まえたうえで、次の課題として浮上してくる〈文化〉の問題について述べたものである。
 また第二の【補論】は、本書に深く関わるいくつかの学説的論点、具体的には、「自由」、「疎外論」、「個と全体」、「自己実現」、「ポストモダン論」について、本文では描ききれなかった本書の学術的な立ち位置について言及したものである。そして【付録】は、本書の原点とも言える『現代人間学・人間存在論研究』の設立趣意、および各号に掲載された序文を再掲したものである。


(5)本書の底本と表記(文体)について 進む