ここでは『麦とTwitter』の中で参照した文献を紹介します。紹介したい本がたくさんあるので随時、更新していきます。このページのテキストは引用部分を除いてCC0 1.0とします。



以下、外部リンク先は基本的に出版社の書籍紹介ページです。

バーチャル美少女ねむ、 『メタバース進化論――仮想現実の荒野に芽吹く「解放」と「創造」の新世界』、技術評論社、2022年

VTuberにしてメタバース文化のエヴァンジェリストとして活躍する著者によるメタバース論の先駆的著作。メタバースという人類にとっての新しいフロンティアで何が起こっているのか、どのような可能性が広がっているのかを「メタバース原住民」である著者が紹介する。メタバースに関連する技術に精通しており、メタバースの中で生きている著者ならでは視点から語られるメタバースの実態は、外の人間には想像ができない魅力と不思議に溢れている。個人のアイデンティティ、人々の間のコミュニケーション、そして経済活動の新しいあり方を生み出しているメタバースのインパクトについての報告と考察、メタバース住民への大規模なアンケート調査など、貴重な情報やアイディアが満載で、メタバースを語るならば外せない必読文献。

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山田胡瓜、『AIの遺電子』シリーズ、秋田書店、2016-2024年

意識や感情を持った、人間にそっくりのヒューマノイドが人間と共生する社会を舞台に、ヒューマノイド専門の医師、須藤光がヒューマノイドたちの様々な「病気」や苦しみに向き合う姿を描いたSF作品。人工知能が猛烈に発展する時代に並走し、時々の話題を織り込みながら普遍性のあるメッセージを発してきた本作は人工知能について考えるための参照点として、またこの時代のスナップショットとしてこの先ずっと語られる作品になるだろう。

無印の『AIの遺電子』(全8巻、2016-2017年)、『AIの遺電子 RED QUEEN』(全5巻、2018-2019年)、『AIの遺電子 Blue Age』(全9巻、2021-2024年)の三つのシリーズがあり、それぞれかなり雰囲気が異なっていて、それぞれに魅力がある。無印は開業医である須藤光が様々なヒューマノイドの病気や悩みに向き合う一話完結の連作。『RED QUEEN』は須藤がヒューマノイドの「人格」の複製という犯罪の真相を追って、その背後にある大きな謎に巻き込まれていくサスペンス。『Blue Age』では研修医として大病院で働く若い頃の須藤があれこれ迷い周囲ともぶつかりながら医師としての姿勢を模索する。『Blue Age』では各エピソードの後ろに山田胡瓜先生のコラムが添えられていて、これも非常に良い。

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九井諒子、『ひきだしにテラリウム』、イースト・プレス、2013年

ショートショート33篇を詰め込んだ作品集。SF、ファンタジー、オカルト、日常、民話風、エッセイ漫画風など、様々なジャンル、スタイルの作品が味わえる。猛烈に絵がうまいのはもちろんだが、作品ごとに絵柄を自在に変えていて、しかもどの絵柄も素晴らしく洗練されていることにも驚かされる。ほとんどの作品は10ページにも満たない長さで、それぞれの作品独自の世界を緻密に構築した上で、その中に「これは何?」「どういうこと?」と疑問を抱かせるフックを提示して、最終的に納得あるいは驚きのオチや捻りを付ける。そして読後に笑いや安堵や落ち着かなさ、そして物事を見る新しい視点を与えてくれる。作者は普段から人々と社会と世界を様々な角度から時に詳細に時に広く観察しているのだろうと感じさせられる。まさしく作者の多彩な「ひきだし」の中に息づくリアルなミニチュアの生態系=「テラリウム」を覗き見るような読書体験である。

ちなみに『麦とTwitter』ではこの中から「すれ違わない」、「パーフェクト・コミュニケーション」の2篇を参照している。「すれ違わない」では自分の考えを完璧に相手に伝えることができる未来のテクノロジーが登場する。「パーフェクト・コミュニケーション」はリアルタイムの会話を「無理ゲー」と感じる青年が主人公。どちらもコミュニケーションの難しさ、それゆえの面白さをテーマにした作品である。コミュニケーションは楽しみの源泉であるが、しかし時に苦痛のもとでもある。情報技術は苦痛を取り除くこともあるが、思わぬ副作用をもたらすこともある。そのことを説明するためにこれらの作品を参照した。

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ジャレド・ダイアモンド、『銃・病原菌・鉄――1万3000年にわたる人類史の謎』(上・下)、倉骨彰訳、草思社、2012年

16世紀、ヨーロッパ人たちは大西洋を越えてアメリカ大陸に到達すると、たちまちのうちにそこに築かれていた多くの文明を蹂躙、征服し、そして滅亡させた。同様のことはアフリカ大陸、オーストラリア大陸でも起こった。しかしなぜヨーロッパの文明が他の大陸の文明を征服できて、その逆が起こらなかったのだろうか。本書でダイアモンドは、人類史におけるこの大きな「なぜ」に対して、徹底した物質主義的観点から、すなわち生態系や気候や地理などの自然条件に立脚して答えようとする。

直近の原因はタイトルに示されているように、銃や金属などに象徴されるテクノロジーであるが、さらになぜそのようなテクノロジーがユーラシアで他の大陸に先駆けて発達したのかを問うことができる。そうして原因を遡っていった先にダイアモンドが到達した答えはとても意外なものだ。究極の要因は「ユーラシア大陸が東西方向に大きく伸びているから」だという。ユーラシア大陸ではだいたい同じくらい緯度の地域に複数の文明が生まれている。そしてそれらの文明の間では異なる植物が栽培化され異なる動物が家畜化された。しかし同緯度帯であるために気候がそこまで違わず、作物や家畜が一つの文明から他の文明にもたらされることが容易だった。こうして複数の文明の間で産品や知識、アイディアの交換、共有が盛んに行われ、それが文明のスタートダッシュにつながったのだ、とダイアモンドは考えるのである。コミュニケーションこそが文明発展の重要な要因であるという見解はジョセフ・ヘンリックの『文化がヒトを進化させた』、マット・リドレーの『繁栄』にも共通している。

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キャシー・オニール、『あなたを支配し社会を破壊するAI・ビッグデータの罠』、久保尚子訳、インターシフト、2018年

あるシステムの振る舞いについてのデータを分析し、それにフィットする数学的モデルを作り、それによってそのシステムの振る舞いを予測あるいは制御するということは、ニュートンが模範を示して以来確立されてきた近代科学の方法論的パラダイムである。しかし近代科学成立の初期においては、この方法は比較的単純な振る舞いを示すシステムにしか適用できなかった。例えば単純な力学法則に従う物体でも、三体以上が相互に影響を与えあっているようなシステムでは、それらの振る舞いを正確に予測するのは極めて難しいものになりうる。まして気象、社会や人間、経済や政治のような複雑なシステムには、厳密な数学的モデルを適用することは難しかった。しかし統計学の登場によって、より複雑なシステムに数学的モデルを適用して効果的に予測を立てることが可能になった。ただし統計学は、システムの細部の動きを逐一正確に描写するのではなく、システム全体の大雑把な趨勢を捉えることに焦点を当てる。そのことによって大きなシステムのある構成要素が、正確にどのように振る舞うかは予測できなくても、どのくらいの確率でどのように振る舞うかを予測することができるのである。コンピューターの性能が向上し、そしてインターネットとスマートフォンの普及によってコンピューターが利用できる人々の行動データが増大するにつれて、この方法が適用できる範囲が社会の様々な場面に広がっており、またその応用の規模が拡大している。そしてそのことはデータを有効に利用できる人々に莫大な利益をもたらしている。巨大なデータ経済が勃興し、そしてそこでコンピューターに駆動された数学的モデルが猛威を振るっている。

そのような数学的モデルの中には社会に大きな害を与えているものもある。本書の著者キャシー・オニールが「数学的破壊兵器(Weapons of Math Destruction、以下WMD)」と呼ぶのはそのようなモデルである。彼女によればWMDとは、人々を評価する、ランク付けする、分類する、あるいは人々の行動を予測するなどの目的で作られた統計的数学的モデルであり、大規模に使用され、間違っていて、不公正で、有害で、不透明で、自己成就予言的であるといった特徴を持つものである。

本書で紹介されている一例を挙げると、『USニューズ』誌が作成している大学ランキングがある。『USニューズ』誌は1983年から毎年、独自の指標に基づいて大学ランキングを作成し、上位校を発表している。彼らの指標はそもそもハーバードやスタンフォードといった世間から「名門」と考えられている大学が上位にくるようにチューニングされている、と著者は言う。というのもそれらの大学が上位に来ないようなモデルでは正しくないことが明らかだからだ。つまり彼らのモデルには最初から「ハーバード、スタンフォード、プリンストン、イェール等々が最も良い大学だ」という先入観が埋め込まれている。

このようにWMDは一般的に設計者の偏見や先入観を反映する。ある種の現象について数学的モデルを作る時、私たちはその現象のどのような側面が重要なのかを考え、どのようなパラメーターを導入するべきか、そしてそれらにどのように重みづけするかを決定しなければならない。そしてこの決定は個人の意見、あるいはひょっとしたら誤解に基づいている。にも関わらずそのようなモデルは、客観的に測定できる数値を決まったアルゴリズムで計算しているので、人間のバイアスや好みに左右されない客観的なものであるとしばしば主張される。しかし本書の著者によれば、設計者はそのモデルあるいはアルゴリズムに自分のバイアスを埋め込んでいる。そこで宣伝されている客観性は幻想にすぎない。

『USニューズ』のランキングは大学業界に大きな負の影響をもたらしている。多くの大学はこのランキングでの順位を上げるために、そのモデルに対して最適化する努力をするようになった。例えばこのモデルでは入学志願者に対する合格者の割合が少ない方が評価が上がる。大抵の大学には、一定の割合でそこを滑り止めのために受けている受験生がいる。そのためそのような大学では実際に入学が見込まれる数よりも多めの合格者を出すものだ。しかしそのことが合格者の割合を高くさせ、『USニューズ』モデルによる評価を下げることになってしまう。そこで大学の中には、そこを滑り止めのために受けていると思われる成績上位の受験者(したがって別の大学に入学する可能性が高い受験者)を不合格にすることによって合格者の割合を減らしたところもあった。これは受験者にとってもその大学にとっても不幸なことだ。受験生の中には滑り止めで受けた大学が滑り止めにならず、行く大学を失うものがいる。また大学はひょっとしたら獲得できたかもしれない優秀な学生を逃すことになる。もう一つの弊害は学費の高騰である。『USニューズ』のモデルでは学費は評価に影響しない。それはハーバードなどの学費が高額な名門大学がトップに来るようにチューニングされているからである。それゆえ大学ランキングの順位を上げることを優先する大学は、費用をそれほど考慮に入れずに改革を進めることになり、結果として学費の高騰につながるのである。

学生にとっての大学の良さは、そこで学生が何を経験できるか、そこでどれだけ自分に合った教育を受けることができるか、ということに基づいているべきであり、そしてそれゆえに「大学の良さ」は多様でなければならない。単一の尺度ですべての大学を直線的に順位づけるというようなことは、本来、大学を評価する方法として適切ではない。そのような評価があってもいいが、もっと多様な尺度があってしかるべきだし、大学はそのような評価に振り回されるべきではない。しかし現実問題として『USニューズ』の影響は大きく、多くの教員と学生がそれを参考にして行くべき大学を選んでいる。このランキングで上位に位置するということは優秀な教員と学生を引き付けることができるということを意味する。かくしてこのモデルは自己成就し、自らの正当性を高め、そして人々はますますこのランキングを気に掛けざるを得なくなる。

本書の内容からはややはみ出すが、人間や組織を評価するための数学的モデルを作るという営為そのものが包含するバイアスについても私たちは注意を払うべきかもしれない。というのも数学的モデルを作るという決定がすでに、定量化できない価値、コンピューターで処理できるデータの形式に落とせない価値については無視するというある種の重大な価値判断を含んでいるからである。あることを評価する数学的モデルを作るという決定それ自体がバイアスのかかったものなのだ(この点については例えばRobert J. Whelchel, ``Is Technology Neutral?'' IEEE Technology and Society Magazine, Vol. 5(4), Dec. 1986を参照されたい)。科学技術と市場経済を中心にして築かれた社会において、「定量化して評価するべし」というプレッシャーは強く、本来そのような評価がそぐわない領域(教育、行政、医療、芸術、学問など)までも浸食している。

もう一つ本書で取り上げられている別のWMDの例を見てみよう。アメリカの司法システムの中で開発・利用されている再犯予想モデルである。本書では特にLSI-Rというシステムが取り上げられている。これは服役者に対する多数の質問に基づいて、どれだけ再犯のリスクがあるかを見積もるものである。もともとLSI-Rのようなシステムは人間によるバイアスを取り除くことを意図して作られている。人間は知らず知らずのうちに自らが持つ偏見や先入観に強い影響を受ける。それは判事や陪審員という立場に置かれても変わらない。同じような犯罪でも白人より黒人の方が重い判決を受けることが多いということを示す調査もある。こういった人間の持つバイアスの影響を防ぐために、人種など、法廷での判断において考慮されるべきでない要素を組み込まないようにしたのがLSI-Rなどのシステムである。LSI-Rの結果を服役中の再犯防止プログラムのためにのみ利用する州もあるが、中には判事が判決を下す際の参考にするためにこのスコアを利用する州もある。

しかし筆者はこのシステムには問題があると指摘する。LSI-Rの質問の中には例えば「初めて警察と関わったのはいつか」というようなものもあるのだが、著者によればこの質問は不正である。というのも警官は裕福な人々が住む地域よりも貧しい人々が住む地域を重点的に見回り、そして白人より黒人やヒスパニックをはるかに頻繁に呼び止めて職務質問や身体検査をするからだ。このためたとえば未成年飲酒や喧嘩や大麻の所持などの軽い犯罪で捕まる可能性は平等ではない。「初めて警察と関わったのはいつか」というような質問は暗に回答者の生まれや育ち、家族や近隣の環境、人間関係といったことを計算に入れる効果を持つのである。裁判の場ではこういった要素が判決に影響を与えることは認められない。著者が言うように法廷においては「我々は行いによって裁かれるのであり、どんな人間であるかによって裁かれるのではない」(原著 p. 26)。しかしLSI-Rは実質的にそういった要素を、客観性の名のもとに、システマティックに組み込んでいる。

さらにLSI-Rも、『USニューズ』の大学ランキングと同様に、自己成就的な性格を持つ。ある人がLSI-Rによって再犯可能性が高いと判断され、長い刑期を課されたとしよう。彼はより長く社会から隔絶され、より長く他の犯罪者たちに囲まれることになる。そのために彼が刑期を終えたとき、社会に戻って仕事を得ることはより一層難しくなり、そのことは彼が再び犯罪に手を染める可能性を高める。つまりLSI-Rによって再犯可能性が高いと判断されたというまさにそのことが、彼を再び犯罪に走らせる原因になるのである。これは必ずしもLSI-Rだけのせいではなく、刑務所の環境、社会の犯罪者に対する扱いという複雑な要因が絡む問題である。しかし長い刑期が社会復帰をより困難にするということが事実である現状において、このようなモデルの限界と不公正さを認識することは重要である。

WMDは一般的に何らかの傾向や能力を測るためのモデルを作るために、それらの傾向・能力と統計的に相関するパラメーターのセットを利用する。そのパラメーターは測定したい傾向・能力の近似として役に立つ。そのモデルは時には測定対象となる人物について間違った情報を伝え、したがって間違った判断を下す。しかしそれが十分な割合で(すなわちモデルの使用者が利益を得るのに十分な割合で)正しい情報を与える限り、少数の誤判定は無視される。本来、数学的モデルにおいては、予測の検証というプロセスが不可欠である。モデルの精度を高めるためには、予測が当たらなかった事例について綿密な調査を行い、なぜ当たらなかったのかを追求し、モデルを改良しなければならない。しかしながらWMDの目的が正確さや正しさよりも効率である場合、このようなフィードバックのプロセスは取られないかもしれない。またたとえ検証がなされたとしても、裁判のような場で犯罪とは直接関係ない行動や属性を取り上げ、「こういう行動を行う人、こういう属性を持つ人は再犯の可能性が高いから」という理由でより厳しい処罰を与えることは不正である。同じことは人事評価のような場でも言えるだろう。さらには上の例のような自己成就なWMDの場合はその予測が当たったことがWMDが正しいモデルであることを保証しないので、そもそも事後的な検証が意味をなさない可能性もある。

こういった問題をさらに難しくするのがWMDの不透明さである。WMDが下す判断の根拠は必ずしも私たちにとって明らかではない。それはそのメカニズム、アルゴリズムが企業秘密として守られているからということもあるし、あるいはそこで用いられる数式が複雑で理解できないということもある。WMDがやっていることを理解できるのは一部の数学者だけであるが、しかし彼らはその判定に抗議する声に耳を貸したがらない。WMDに抗議できるのは知識や力のあるものだけである。ビッグデータと近年の機械学習がこの状況をさらに悪化させるのは言うまでもない。深層学習など、近年の機械学習のテクニックはしばしば判断をブラックボックス化するということが懸念されている。機械学習を利用したとき、もはやWMDの設計者ですらWMDの判断の理由を説明することはできないのである。

現在のデータ経済においては、情報空間を満たす大量のデータの中から、微妙なパターンを見つけ出して、利用できるものが莫大な富を手にすることができる。それゆえに企業はますます多くの、ますます多種多様なデータを取得することに力を注ぎ、そのデータを活かして利益を上げる方法を探している。もちろんそれらすべてが悪辣なものというわけではない。しかし一部には確実に、倫理的に問題があるもの、あるいは民主主義の基本的理念に反するものがある(それゆえ例えば憲法学者の山本龍彦は著書『恐ろしいビッグデーターー超類型化AI社会のリスク』(朝日新書、2017年)において、貪欲なデータの取得と利用に対抗するために、憲法に定められた権利を武器にすることを提案する)。とはいえ現在のところ、たとえそれが不正なものでも、弱者やマイノリティを食い物にすることによって成り立っているものでも、多くは従来の規制や法の手の届かないところにある。現在の状況は、産業革命の後、企業が労働者や環境を濫用することで利益を得ていた時代のようなものだ、と著者は考えている。私たちの社会は少しずつその状況を改善して、企業活動に規制を課し、人々が不当な不利益を被ることがないようにしてきた。それゆえ著者はWMDに関しても何らかの監査や規制を設け、「取り締まり、手なずけ、非武装化する」(原著 p. 218)ことを提案している。データに基づいた数学的モデルはこれからもますます利用されていくだろう。その流れをとめることはできない。しかしそれらは一部の人たちの利益のために多くの人を犠牲にするような使い方ではなく、社会を安全にするために、苦しんでいる人々を救うためにも利用できる。しかしそのためには現在のように野放しに使われていてはいけない。

「数学的モデルは私たちの道具であるべきで、主人であるべきではない」(原著 p. 207)と著者はいう。もともとが数学者であった著者は、数学的モデルの濫用を嘆き、それがよりよい仕方で使われるように訴えている。そして「数学はWMDよりもずっと良いものに値するし、民主主義も同様である」(原著 p. 218)という言葉で本書を締めくくっている

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タリア・ラヴィン、『地獄への潜入――白人至上主義者たちのダーク・ウェブカルチャー』、道本美穂、柏書房、電子版、2022年

有色人種やユダヤ人や女性や性的マイノリティに対して激しい憎悪を燃やし、時に苛烈な暴力も振るう人々(白人至上主義者、ネオナチ、インセルなど)が、どのようにしてコミュニティを作り、その中でどのように極端な思想を醸成・共有しているのか。著者は彼らの利用しているオンラインコミュニティやオフラインの集会に潜り込んで調査する。そのことで曲解・捏造された歴史や神話、選民的意識、疑似科学が人々の不安や不満と結びついて憎悪が生まれ、それがエコーチェンバーの中で繁殖、増幅していくメカニズムを克明に暴く。

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アンナ・レンブケ、『ドーパミン中毒』、恩蔵絢子訳、新潮新書、新潮社、2022年

タイトル、表紙、帯の惹句のセンスから想像されるよりもずっと良い本だった。多くの依存症患者を診察してきた著者が、具体的な事例と科学の知見、そして著者の経験と人間観・社会観に基づいて、依存を生み出す生理的、心理的、社会的要因と、依存を断つ方法について解説する。

現代の文明は私たちを豊かにし、そして私たちの周りを心地よいもの、刺激的なもので溢れさせた。一方で私たちの多くは不安やストレスや孤独や欲求不満を抱えている。そんな中で私たちはわずかな苦痛も厭い、すぐに得られる快楽を求めるようになってしまった。そのような快楽の中には私たちを依存させるものがある。アルコールや煙草、鎮痛剤、麻薬などの様々な薬物だけでなく、ポルノや性的行動なども依存を引き起こしうるし、普通の食べ物や読書や運動も場合によっては依存の対象になる(著者自身も一時期、「月並みなエロ小説」を読みふけることがやめられなかったという)。

著者は快楽と苦痛の関係に注目する。快楽に関連する脳の部位はまた苦痛を感じることにも関係している。そして苦痛と快楽はシーソーのように、一方に傾くとその後は他方に傾くように調整されると著者は言う。要するに感覚や情動において中立的な状態から長く繰り返し逸脱することにはコストがある。手っ取り早く快楽や興奮を与えてくれるもので不安や痛みを解消しているうちに、それらが欠如したときにさらに大きな不安や苦痛を感じるようになってしまう。そしてその不安や苦痛から逃れるためにますますその物質や行動に依存する。

では依存を断つにはどうしたらよいか。著者は彼女が「DOPAMINE」と名付ける以下の方法を勧める。

人々が依存に陥る要因は複雑であるが、著者は「アクセスのしやすさ」が特に重要であるという。したがって依存を断つためにはその対象が手に入らないような状況を意識して作ること、すなわち「セルフバインディング」が重要である。そうして過剰に追及していた快楽からしばらく距離を取るとシーソーのバランス、ホメオスタシスが次第に落ち着いてくる。著者が多くの患者を見てきた経験では通常それには2週間から1か月くらいかかる。

著者が勧めるユニークな方法の一つがシーソーをあえて苦痛の側に傾けるということである。コントロールされた苦痛によって、それが取り除かれたときに快を得ようということである。現代の文明人は苦痛を回避することに重きを置きすぎている。しかし実際には苦痛はその後の快楽をもたらすものでもある。冷水浴や運動などの苦しみの後には健康的な快楽が得られる(ただしこれもやりすぎると依存になりかねないので注意は必要である)。より重要なのは自分の不安や苦痛の源になっているものから逃げるのではなく、あえてそれに向き合うことである。それは最初は非常に苦しい経験かもしれない。しかし真直ぐに向き合ってみれば、それは逃げていた時に思っていたほどの苦痛はもたらさないかもしれない。また繰り返しそれに向き合うことでやがて克服できるかもしれない。その一方で一時的な快楽によって不安や苦痛の源から目をそらすことは根本的な解決にはならず、かえって不安や苦痛を増すことがおおい。

もう一つ筆者が勧めるユニークな方法は「徹底的な正直さ」である。自分の振る舞いや考えについて正直であることは難しい。人はほとんど無意識のうちにさまざまな嘘をついている。徹底して真実を語ろうとすることは自分の経験の全体をよく観察することにつながり、それはまた自分の欠点を見つめること、自分自身に責任を持つこと、自分と他者との関係をとらえ直すこと、自分自身の行動を変えることにもつながると著者は考える。また自分について真実を語ることは他者との間に親密な関係を作ることに役立つ。

他者との良い関係も依存症患者にとっては非常に重要である。周りの人間が信用できない、世界が不安定な場所だと感じている時、人は長期的な利益よりも短期的な利益を好むようになる。逆に周りの人間が信頼でき、世界が満ち足りていると思っているならば短期的な利益を追い求めないでいられる。これは依存症に陥ることを防ぐマインドセットだと著者は言う。

正直であることが難しいのは、自分が間違ったことをしたり考えたりしていることを正直に告白することは恥をもたらすからだ。恥の感覚は人を破滅に向かわせることもあれば、人がよりよい方向に向かうことを促すこともある。著者は前者を「破壊的恥」、後者を「向社会的恥」と呼んでいる。依存症患者には破壊的恥ではなく向社会的恥を持たせなければならない。そのためには周囲の人間が患者の正直な告白を敬遠するのではなく、共感をもって受容しなければならない。自分には居場所があると感じさせなければならない。同時に周囲の人間も自分の欠点や過ちについて正直でなければならない。互いの欠点を認め合い間違いを共に直してより良い方向に向かうような関係性が望ましい。

ざっと要約すると、なんとなくありきたりなことを書いているように思えるが、著者の豊富な臨床経験、彼女が接してきた患者たちの生々しい体験、そして彼女の人間観などが重なった、非常に読み応えのある本だった。

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ピーター・ボゴジアン、ジェームズ・リンゼイ著、『話が通じない相手と話をする方法――哲学者が教える不可能を可能にする対話術』、藤井翔太監訳、遠藤進平訳、晶文社、電子版、2024年

自分とは極端に異なる意見・信念を持つ人間と会話をして、いかに相手の考えを変えさせるかということの具体的で実践的なマニュアル。書いてあることのほとんどは常識的と言えるようなものである。例を挙げれば「まずラポール(親しさ)を形成する」とか、「互いの共通点を探る」とか、「相手が安心できる状況を保つ」とか、「相手を敵ではなくパートナーと見なす」とか、「相手に勝つことではなく理解することを目標にする」とか、「自分も相手から学ぶ姿勢でもつ」とか、「傾聴する」とか、「相手がなぜそのような信念を持つようになったのかを尋ねる」とか、「相手の言動に悪意を読み込まない」とか、「倫理的な非難をしない」とか、「事実を突きつけるのはやめる」とか、「スマホを触らない」とか、「業界用語・専門用語を使わない」などなど。

極端に意見が違う相手に限らず、どんな相手であれ円滑なコミュニケーションをとるには役に立つアドバイスだと思う。ただここに書かれていることを全部、きちんと実践するのはかなり大変だろう。正直、個人的にはここまで頑張って極端に意見の違う他人の考えを改めさせたいと思うことはない。ただそう言えるのは自分が恵まれた環境にいるからなのかもしれない。

著者の一人は以前に『無神論者を作るためのマニュアル』という本を書いているらしく、他人の宗教的信念なんて一番放っておけばいいものじゃん、と思うが、まあアメリカの学者が進化論を否定する頑迷なキリスト教徒が大勢いることにうんざりする気持ちは分からないでもない。

なおリチャード・ドーキンスが「すべての人がこの本を読めば、世界はもっとよい場所になるだろう」と推薦しているが、「いやいや、あなたはこの本に書かれているようなこと一番できてませんよ」と突っ込みたくなった。

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ポール・ブルーム、『反共感論――社会はいかに判断を誤るか』、高橋洋、白揚社、2018年

多くの人は「良い人間であるためには他者への共感を持つことが重要だ」と言う。しかし本書の著者ポール・ブルームは、共感はむしろ有害であると強く断言する。一見、驚くべき主張だが、読み進めると最初の印象ほど突飛なことを言っている訳ではないことが分かる。この主張が突飛に思える原因の一つは、「共感」という語の多義性による。この語は「他者の感じていることを感じること」、「他者の気持ちを理解すること」、「他者を気遣うこと」、「他者に親切にすること」、「他者を愛すること」など、様々な意味で使われる。著者が反対するのは最初の意味での共感、すなわち「他者の感じていることを感じること」、「他者と同じ気持ちになること」である。その他の意味での共感、すなわち「他人の気持ちを理解すること」などについてはブルームもその重要性・必要性を認めている。また狭い意味での共感を完全に捨てるべきだと主張しているわけではなく、共感が個人の経験を豊かにすること、親密な人間同士の関係において重要な働きをすることを認めている。しかし道徳的に良い判断や行動のためには共感に頼ることは間違いであり、私たちは理性に頼らなければならない、とブルームは言う。この点でブルームはジョシュア・グリーンに近いが彼よりも徹底した合理主義者である(グリーンは集団内での道徳的課題の解決のためには理性よりも感情の方が有効であると考えている)。

では狭い意味での共感(以下では単に共感と言う)はなぜ有害なのか。一言で言えばそれが理性的な思考を妨げるからである。共感はいま目の前にいる相手の感情を過大に評価させ、その結果として大局的・統計的な思考を妨げるというバイアスを持っている。ブルームは共感を特定の限られた箇所にだけ光を当てるスポットライトに例える。共感によって動機づけられている人間は、少数の人間、身近な人間、自分と同じ集団に属する人間を不当にひいきする一方、親しくない人間、異なる集団に属する人間、離れたところにいる人間の利害を勘定の外に置いてしまう。共感は目立った事件に対して関心を向かわせる一方で、日常的に起こっている事件には関心を向かわせない。また親や医師といった立場の人間が、子供や患者の苦しみに過度に共感することは、冷静で適切な行動を取りにくくする。さらに共感はそれを持つ人間を疲弊させることににもなる。

共感が時として道徳的な行動の強い動機になるという反論に対してブルームは、実際には合理的な判断や親切心で十分、あるいはその方がより効果的であって、相手と同じ気持ちになることは必要はないという。彼はそこで、自分の腎臓の一方を見知らぬ他人に提供した人物を例に挙げる(もともとピーター・シンガーの本で紹介されているらしい)。その人物は腎臓病を患う他者に共感したから提供を決意したわけではなかった。腎臓提供による死亡のリスクは400分の1である。一方、腎臓提供を待つ患者は提供されなければ確実に死ぬ。このとき自分の腎臓を提供しないということは、自分の命を他人の命より400倍の価値があると見積もることである。そのような評価は正当化できない、とその人物は考えたのだ。この判断は徹底した功利主義的・抽象的な計算の結果であり、そのような計算は共感に動機づけられてできるものではないとブルームは言う。さらにまたブルームはこれまでに行われた心理テストの結果においても共感の高さと道徳性の間にはほとんど関係がなかったと指摘する。

しかし暴力の抑止には共感が重要だという反論がありうる。もし共感が目の前の人間の痛みを自分の痛みのように感じさせるならば、共感しやすい人間が他人に暴力を振るうこと、あるいは目の前で行われている暴力的行為を看過することは難しいように思われる。しかしブルームはこの理由に基づく共感の擁護も否定する。第一に、暴力を受けている人に共感する人が、その暴力を止めるための行動に出るとは限らない。共感による痛みを避けるには、暴力から目をそらして、その場から立ち去れば良いからだ。第二に、共感を持っている人の方がより攻撃的になりうることを示す研究もある。これはある特定の人に共感していると、その人にとって障害となる他者を排除しようとする気持ちが働くからである。これに対しては、共感が悪いのではなく、共感が十分でないことが悪いのだ、という反論があるかもしれない。分け隔てなく、身近な人にもそうでない人にも、視野に入るひとにも視野の外にいる人にも、ひとしく共感することができるならば、それは暴力を減じさせるに違いない。しかしブルームは共感はそのようには働かない、と主張する。共感のスポットライト的本質から、すべての人に共感するというようなことは不可能なのだ。

だがブルームの言うように、共感を抑制して理性を働かせるということはそもそも可能なのだろうか。近年の心理学は、私たちの日常的な意思決定と行動がいかに合理的でないかを次々に明らかにしている。もし人間がそのように非合理的な生き物であるとするならば、ブルームの主張は絵に描いた餅であろう。しかし「理性の時代」と題された最終章において、人間はよく言われるほど非合理的ではないとブルームは言う。なぜなら第一に、ある行為が「非合理的である」と判断できるのは、何が本当に合理的であるかを私たちが判断できるからだ。第二に、人間の意思決定と行動が非合理であるということを示す心理学の実験がそれほど当てになるかどうかが疑問である。ここでブルームは実験室での行動と現実における行動の乖離、そして心理学の実験の再現性の低さを根拠として挙げている。結論としてブルームは、私たちは感情に動かされることなく、正しく理性を行使することで、より良い行動を導くことができるのであり、そうするべきだと言う。

以上が本書の内容の要約である。以下では私の感想を記す。

おそらく人間には他者に共感しやすい質の人と他者に共感しにくい質の人がいて、そこには様々な程度の差が存在している。そしてピーター・シンガーは極端に非共感的、グリーンもシンガーほどではないがかなり非共感的な人なのだろう。グリーンによればカントやベンサムもそうだったと考えられるらしい。念のために断っておくと、これは別に彼らが冷淡だとか優しくないとかということを意味しない。自分の子供に高価な誕生日プレゼントを上げて喜ぶ顔を見たいという欲求より、アフリカの子供に薬を送ることで多くの命を助けたいという欲求を優先することができる人間だということである。私自身は中々このように考えられない。どうしても自分に近い人間のことを優先してしまう。共感しやすさのスペクトラムの中で自分はおそらく真ん中よりやや共感的な方に寄っていると思う。ちなみに本書の著者のブルームはどうかと言えば、おそらくシンガーほど極端ではない。私とシンガーの間のどこかにいるのではないか。

自分が比較的共感しやすい人間であるゆえ、共感は無益・有害であるというブルームの主張には、心穏やかではいられなかった。しかし共感のメカニズム、その特徴、そして共感に駆られた行動が悪い結果を引き起こすようなケースについて知っておくことは、自分と同じような人間にとってこそ重要であると思った。

ただし私はブルームの議論に全面的に賛成するわけではない。彼の議論にはかなり雑なところもある。第一に、共感はトータルでマイナスが大きいので、共感の働きを当てにすることは止めようという主張はあまりに素朴すぎる。ある生物が人間にとって有害だから絶滅させようというのと同じような議論に思える。すべての生物は生態系の中で他の生物と複雑な相互作用を行っている。一つの種を取り除いたときに生態系全体にどのような影響があるかを予想することは難しい。同じように私たちが共感を働かせることを悪として排除したときに私たちの社会に予想外の結果がもたらされる可能性は大きい。共感が有害な結果をもたらすこともあるから気を付けよう、と言うのなら分かる(随分とインパクトには欠ける主張にはなっただろうけど)。しかし共感を道徳性の指針にするのはすっぱり止めようというのは人間の心理の複雑さについてあまりに無理解なのではないかと思う。この点で私はジョシュア・グリーンの道徳二元論(場合によって感情と理性の両方を使い分けよう)の方が賛成できる。

第二に、ブルームは共感の有害性を論じる際に様々な心理学の知見を援用しておきながら、人間の非合理性を示す心理学の知見については、信頼性がないという。もちろん同じ研究を参照しているわけではないから明白な矛盾というわけではないが、しかし読者には具体的にどの研究がどのような理由で信頼性がないのかということは示されない。ブルームはただ心理学の実験の多くについて、再現性に問題があるということ、実験室の状況と現実の状況で人間が同じ判断・行動をするわけではないということを指摘するだけである。なぜこの批判が共感の有害性を示す研究には当てはまらないのかは説明されない。私は心理学者でも統計学者でもないので、個別的な研究の信頼性を自分で確かめることはできない。したがってブルームのアド・ホックに思われる態度が果たして正当化できるものなのか判断できない。さらに言うとブルームは既存の共感性尺度に問題があることを認めながらも、それに基づいて共感についてさまざまな結論を導いている。プロの心理学者ならば自分できちんとした尺度を作ってから論じるべきではないのだろうか。この点でもブルームの議論には説得力を欠くところがある。

第三に、ブルームは共感を抑制して理性をはたらかせなければいけないというのだが、ではいかにしてそれが可能なのかということについて具体的に何も述べていない。ブルームのこの本を読んで、「なるほど共感は抑制しなければならないのだな」と思うことができて、そして実際に抑制できるのは、最初から共感性スペクトラムの非共感側の極の近くにいる人だけ、あるいはせいぜい真ん中あたりにいる人だけだろう。「理性を働かせれば世の中良くなる」というのは、このお題目だけだったら「元気があれば何でもできる」というような根性論と対して変わらない。最悪の場合、このような主張は「世の中が悪いのは理性を働かせられない奴らのせいだ」というような言説を引き起こし、共感性スペクトラムの両側の間の対立を引き起こしかねない。

本書にはおそらく共感について私たちが知っておくべき重要な事実がたくさん含まれている。しかしそこから共感を悪者に仕立てて排除しようと結論するのは性急である。私は本書を多くの人に読んで欲しいとは思うが、共感が悪であるという主張をうのみにして欲しくはないし、またこの主張に反発するがゆえに本書で提示された事実までをも無視して欲しくはない。

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ルイス・サッカー、『トイレまちがえちゃった!』、唐沢則幸訳、矢島真澄イラスト、講談社、1998年

不器用で孤独な少年ブラッドリーがスクールカウンセラーのカーラとの出会いによって他人と自分を愛することを学ぶ物語。周りの子供とも先生とも家族ともうまく付き合えないブラッドリーは、どうせ嫌われるのだからと先んじて人を嫌うことで自分を守ろうとしている。そしてそんな自分自身のことも嫌っている。ある時、ブラッドリーのクラスに転校してきたジェフがブラッドリーに歩み寄り、二人は友人になりかける。ところが周囲に対してあまりに悪意に満ちた態度を取ってばかりいるブラッドリーにジェフは愛想を尽かすようになり、次第に二人の間の関係は険悪なものになってしまう。

しかしスクールカウンセラーのカーラとの出会いがブラッドリーに転機をもたらす。カーラ話をするうちにブラッドリーは徐々に自分に自信が持てるようになり、より良い振る舞いができるように努力することを学ぶ。そしてそれに伴い、周囲の人々に対するブラッドリーの認識も変わっていく。

ブラッドリーとジェフが和解するシーンは感動的である。ある時、周囲にけしかけられてブラッドリーと喧嘩をするために近づいて来たジェフに対して、ブラッドリーは一度は応戦しようと構えるが、しかし突然思い直して、「やあ、ジェフ」と挨拶をして手を差し伸べる。ジェフはこれに不意を打たれ、「やあ、ブラッドリー」と返事をしてブラッドリーの手を握り返す。これによって二人の関係は修復される。

ここでブラッドリーがジェフに手を差し伸べることができたのは、カウンセラーのカーラがブラッドリーの心の支えになっていたからである。ブラッドリーは最初のうちカーラのことを拒絶していた。それでもカーラはブラッドリーを孤独から救おうとし続け、ブラッドリーに素晴らしいところがたくさんあることを気づかせようとし続けた。カーラの存在があったからこそ、ブラッドリーは自分に自信を持つこと、より良い人間になろうと望むこと、人間への信頼を回復すること、そして世界に向かって自分を広げることができた。もしもカーラとの出会いがなければ、ブラッドリーはいつまでも誰のことも信頼しない孤独な人間でいた可能性もある。挨拶をして握手をすることは、多くの人にとってほんの些細なことかもしれない。しかし孤独に苦しむ人間にはそんな些細な一歩を後押ししてくれる存在が必要なこともある。

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ヴィクトル・ユゴー、『レ・ミゼラブル』、佐藤朔訳、新潮文庫、新潮社、1967年

フランス革命、ナポレオンの台頭と失脚、王政復古と、フランスの歴史上最も急激に社会が変動し混乱した時代を背景に「悲惨な人々(Les Misérables)」――貧しい人々、力がなく虐げられる人々、道を踏み外して悪行に走った人々――を描いた物語。王政、共和制、帝政、再びの王政と目まぐるしく政治体制が変わり、そしてそれぞれの体制がそれぞれの矛盾と困難を露呈する中で、ユゴーは人々がいつか正義の実現した社会を作り上げ、そのときにはもはや社会環境や無思慮な権力のせいで悲惨な人々が生み出されることはなくなるだろうという希望を持っている。ユゴーは次のように述べる。

今読者が読んでいる本は、端から端まで、全体的にも、部分的にも、中断、例外、欠陥があるにしても、すべて悪から善への、不正から正義への、虚偽から真実への、夜から昼への、欲望から良心への、腐敗から生命への、獣性から義務への、地獄から天国への、虚無から神への前進である。出発点は物質、到達点は魂である。初めの怪物は、終りでは天使となる。(5巻、p. 115)

ユゴーの希望は、幾度となく窮地に陥り迷いながらも何とか正しい選択をし続けるジャン・ヴァルジャンというキャラクターに体現されている。主人公のジャン・ヴァルジャンは貧しさの中で一片のパンを盗んだために投獄されるが、自由を求める精神ゆえに繰り返し脱獄を試みて結局19年間を徒刑場で過ごすことになる。出所した後も人々から罪人として冷たく扱われて苦しみ、社会に対する恨みと怒りを募らせ、そのために親切にしてくれたミリエル司教から銀の食器を盗んでしまう。しかしミリエル司教はそんなジャン・ヴァルジャンを赦し、さらに銀の燭台を与える。ミリエル司教の気高い寛容さに触れたジャン・ヴァルジャンは改心をして、今後は正しく生きることを決意する。それからジャン・ヴァルジャンは他者に対して自己犠牲的なまでの献身を示し、貧しい人々、病いや怪我に苦しむ人、いわれのない罪を着せられる人に救いの手を差し伸べる。そして度々襲い掛かる良心の危機、利己的な心の甘言を乗り越えて、正しい道を全うする。

こんな風に紹介すると重く堅苦しい話のような印象を与えるかもしれないが、本作が時代を超えて読み継がれ、現代に至るまで何度も舞台化、映画化され、児童向けの短縮版が作られる理由は、なんといってもその抜群のエンターテインメント性にある。特に多種多様で奇抜なキャラクターたちの魅力、彼らの言葉や行動の健気さと美しさと格好良さが本書の面白さを支えている。迷える魂と強靭な肉体と不屈の精神力を持つヒーロー、ジャン・ヴァルジャン。ジャン・ヴァルジャンの人生を導く、善意と慎ましさの塊のようなミリエル司教。執拗にジャン・ヴァルジャンを追う、法と秩序の番犬たるジャヴェール警部。どこまでも利己的・身勝手・浅薄で、不幸の種を播いてはせっせと育てる小悪党テナルディエ。孤独の中で虐げられても純真さを失わない少女コゼット。テナルディエ夫妻に騙されながらコゼットのためにすべてを犠牲にするファンチーヌ。自由奔放で気の良い浮浪児ガヴローシュ。理想家で無鉄砲で感化されやすいマリユス。蓮っ葉なようで一途で勇敢なエポニーヌ。植物と書物を愛する学者だったが貧しさゆえに絶望して革命の旗のために命を捨てたマブーフ老人。こういったキャラクターの優れた造形に加えて、一つ一つの場面での心理や出来事の描写の緊迫感、張り巡らされた伏線とその回収の鮮やかさ、そして波乱万丈かつ緻密に組み立てられたストーリーの面白さ。これらがあればこそ、ユゴーがそこに込めた思想も眩しい光を放つ。

【ところで新潮文庫の新装版のカバーには一言、言いたい。巻のタイトルが人名になっている1巻「ファンチーヌ」、2巻「コゼット」、3巻「マリユス」、5巻「ジャン・ヴァルジャン」の中で、1巻以外はその巻のタイトルになっている人物が表紙に描かれていると思われるが、1巻だけは明らかに違う。この扱いには異議を唱えたい。幼いコゼットを救うために娼婦となり、髪の毛も歯も売って、それでも誇りは失わず、最後までコゼットを思いながら死んだファンチーヌはジャン・ヴァルジャンに次ぐ本作のヒーローだと思っている。】

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カレー沢薫、『モテの壁』、新潮文庫、新潮社、2023年

自称「一度もモテたことがな」く、「モテる方法」や「モテる人間」について考えるだけで大きな苦痛を感じるという著者が、真っ向からモテについて考えた連作エッセイ集。スタンダードなモテ指南書、モテそうな芸能人、実業家、漫画や映画の登場人物、果てはAV男優などを題材に、いかなる人間がモテるのかを、かなりの偏見を交えつつ論じる。文章がうまく、毒が効いていて、譬えがことごとく秀逸で笑わされる。そして本書は単に恋愛対象としてチヤホヤされる小手先の技術を面白おかしく論じるだけではない。「おわりに」で書かれているように、「モテる」ということは「人に好かれる」ことであり、それは社会的生物である人間にとっては生きていくために極めて重要なことである。著者は「人間に好かれようと思ったらまず自分が人間を好きでないと話にならない」(p. 270)というビートルズの``The End''の歌詞(「結局、あなたが得る愛はあなたが与える愛に等しい」)のような言葉や、「いくらモテても、リスペクトが発生しないモテでは幸せになりづらい」(p. 272)という言葉で、人間関係における普遍的な教訓を示して本書を締めくくる。

『麦とTwitter』ではインターネットの問題について論じた第5章の最後で「ツイッターというのはガンジス川であり、聖なる部分もあるが、基本的にはウンコ汁」(p. 238)という言葉を引用しただけだったが、改めて読み返して、コミュニケーションのしんどさや、孤独で生きることが可能になっている社会でのコミュニケーションの価値と必要性など、『麦とTwitter』で扱ったテーマに重なる部分も多く、もっとたくさん取り上げればよかったと思った。

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